2014年2月1日にすべてははじまりました。
2014年2月1日
この日から、私の計画相談支援としての人生がはじまりました。
私が38歳の頃です。
当時の私が見ていた景色を、ブログにアップしはじめたのが最初です。
この時期は、まだ1名の利用者しかいないときでしたので、こころにも余裕がありました。
ここから4年間で、契約者数220名を迎えることになるとは、当時の私は思いもしませんでした。
当時、福岡ではじまったばかりの計画相談を、無我夢中で取り組んでいたのです。
当時は命を削ってやっていたように思います。
きっと、もう誰も経験することがないであろうことを、私は経験することになったのです。
当時、おそらく最先端の計画相談支援事業所だったと思います。
専用の部屋と、おしゃれな内装。
私の趣味で囲まれながら、日々の業務に従事していました。
まるでカフェのカウンターのような環境。
誰もが、コーヒーを飲みに来たかのような雰囲気の、今となっては幻のようなスタートでした。
でも、この後ろの棚が、あふれんばかりのファイルになるまでに、時間はそんなにかかりませんでした。
ノーマになってからも見えるライオン印のパチンコ屋さん。
この頃は、新台入れ替えを知らせる「アドバルーン」がよく飛んでました。
その景色を毎日みながら、今日の訪問先の準備を重ねていました。
この頃は、すべてひとりで行なっていたので、帰宅時間は深夜の0時。
郵便局の夜間窓口に封をして切手を貼っている封書を束にもって、自宅のある久留米の郵便局の夜間窓口に毎日出して帰宅していました。
今では、私が尊敬して止まない事務員さんがやってくれているのですから、感謝しかありません。
当時は、相談支援専門員も私一人ではありませんでした。
でも、誰もが「孤独」と「傷」を背負ってここにやってきていたようにも思います。
今でも、当時、ここにいてくれた誰もが、よくがんばったなぁって思います。
まさに同僚でありながら、戦友でもありました。
このとき、窓からみえたマンションの3階に出るなんて、当時は全く思いませんでした。
220名の利用者を抱え、毎日、深夜まで業務を行っていた私は、3年を過ぎて、4年目に入った頃から、突如として不整脈に襲われ、時折、発作性の心房細動に苦しめられることに。
もはや、業務の継続ができないと判断し、少しでも利用者さんを減らすために、私が計画相談を「辞めること」を伝え、これまで抱えていた政令市の利用者さんの多くを、お住まいの地域の事業所に引き継ぎをしてもらいました。
もちろん、当時の私が計画相談を辞める選択はなかったのですが、やはり、つながってきた利用者さんや保護者さんとスムーズにお別れするためには、どうしてもつくべきではない「嘘」をつく必要がありました。
それは、私自身がこれまでの付き合いを重ねるなかで、信頼を築き、情緒的な関わりを続けてきた利用者さんやそのご家族を振り切るためにも必要な選択でした。
しかし、その嘘をつき続けることが、私自身を苦しめるきっかけにもなり、最終的に、2018年1月31日をもって、前職の法人を退職し、新たな事業所を設立する選択を行いました。
これまで、筑紫地区全域と福岡市を担当範囲としていましたが、那珂川市と春日市に限定することになり、本当に地域を限定し、地域密着型の計画相談を開始することになったのです。
このとき、おそらく170名くらいまで利用契約者は減少していました。
当時からあった電気ケトルは、今でも現役です。
2018年2月1日、新たに「計画相談支援室ノーマ」として、30メートル離れた場所でスタートしました。
ノーマは、私にとっての計画相談におけるひとつの区切りであり、新たなスタートでもありました。
それ以降の私の計画相談は、これまでの数多くの実践から得た情報やノウハウ、いわゆる「量」によって得た、たくさんのケースをもとに、以後は、より質の高い相談支援を行うこと、すなわち「質」に移行することになったのです。
まさに、当時の計画相談のテーマでもあった「量から質へ」の転換を図ったのです。
同時に、自分の能力を過信せず、自分の得意分野や専門分野を中心に、相談支援を行うことを心に留めて行なってきました。
だからこそ、私が得意ではない分野は、得意とする相談支援事業所と連携を図り、より専門的な支援が受けやすい環境へとつなぐことも厭いません。
きがつけば、たくさんの同業者に囲まれて仕事ができるようになりました。
2019年2月3日は、ノーマ1周年としてレストランを貸し切ってのパーティーを開きました。
100名を超えるみなさんにご参加頂き、楽しいひとときでした。
当時、一緒に計画相談を行なったメンバーは、2023年になっても地域で一緒にがんばっています。
私のいる周辺は、本当にすばらしい計画相談に囲まれていると思っています。
もはや、当時の写真が私の手元にはないのが残念。
でも、あの当時があったからこそ、いまの私たちがいるのは間違いないです。
この頃、コネクトの松尾さんと良く会い、地域の現状について話をしていましたね。
誰かが声をあげて、地域と繋がっていかないと、この地域の福祉はなかなか成長しないという危機感もありました。
今の一般社団法人設立の基礎となった「原点回帰の会」をはじめたのも、この頃だったですね。
それにしても、年齢は違えど(私がはるかに年上なんですが)、松尾さんと私が良く似ているとの評判で、今でもきょうだいと呼ばれることに(苦笑)
この自由さも、計画相談ならではなのかもしれませんが、この自由さをどのように活かすかも、私たち自身に委ねられてるようにも思います。
うれしいことに、みんな計画相談を今も続けてくれています。
そして、私たちの仲間から、あらたに計画相談を始めてくれる人たちも増えています。
この地区の強みは、私たちと一緒につながっている人たちの多くが、計画相談を何年も続けてくれていることです。
運営しながら続けることの大変さは、私自身がよくわかっています。
だから、ひとりにならなければ、今も、これからも続けていけるはずです。
続けた先に何があるのかはわかりませんが。
私は、つぎの10年を見据えての10年目の計画相談の舵取りを行う必要がありそうです。
丸10年を迎えた時に、何か良い結論につながっていれば良いのですが、まだ、私にはわからないことばかりです。
とにかく、丸9年を迎えることができました。
みなさんに改めて感謝申し上げます。
最近、この「ネガティブ・ケイパビリティ」ということばをよく思い出します。
答えのない事態に耐える力こそ、わたしたち相談支援専門員に必要な能力だと感じています。
一度、読んでみることをおすすめします。
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