とある支援員さんの訃報に触れて

ハマチの会が開催される直前に、計画相談の仲間から、筑紫地区にある事業所の支援員さんの訃報の連絡が入りました。

その方とは、しばらくお会いできていませんでしたが、一時は、その事業所を利用していた利用者さんを通じて、計画相談に対するたくさんのご協力を頂いていた、まだ、これからの事業所を引っ張っていく、まだまだこれからの支援員さんでした。

私も同じ地区で障がい福祉を担う者として、まもなくこの地区で9年目に入ろうとしている中で、今回のような同じ仲間として身近な支援員の訃報に触れたのは、もしかしたら初めてかもしれません。

亡くなった理由は、急に病気が見つかり、進行を防ぐことができなかったということでしたが、若さ故に、進行スピードも早かったのかもしれません。

同時に、同じ職場で働いていた職員さんや、信頼していたであろう法人代表、事業所の利用者さんのことを思うと、おそらく失意の中にいらっしゃるのではないかと思います。

確かお酒が大好きで、本当に穏やかで優しい職員さんだっただけに、残念でなりません。

こころから、ご冥福をお祈り致します。


私たちは、今の今も当たり前のように生きていますが、いつかは終わりがくることはわかっていても、こうやって、道半ばで命を落としてしまう人に出会うと、その当たり前と思っていたことは、決して当たり前ではないことを思い知らされます。

世の中に対する不平不満を口にしながら生きて過ごす人生よりも、「今の自分に何ができるか」を考えて、毎日を必死で生きていくことがいかに大切かを、知っている方の訃報にふれることで思い知らされます。

「誰もが生きていることが当たり前になりすぎている。」

そして、こういった場面にであわないと、このように自分を振り返ることができない自分自身に対して嫌悪感すら感じます。


最近、40代半ばをすぎて、「本当に自分が積極的に動いていく期間は、そこまで長くはない」と感じる場面が増えてきました。

体調に波が生じたり、疲れから起き上がることに対して億劫だったり、慢性的な痛みといったことで、自分自身に対していつのまにか『行動制限』がかかっている「自分」と向き合いながら、「いつまでこの仕事を続けられるのだろう」という不安を感じているのです。

2022年に入って、また1年歳を重ねて、新しいことにチャレンジする気持ちが着実に薄れ、徐々に立場を守りに入って行こうとする自分を実感するのです。

そういった自分に対して、家族を養っていくこと、身体的に衰えを感じているといった理由を周囲に振り撒いたりしながら。

事業所名や利用者や支援者の名前がすぐに出てこなかったり、スケジュールを入れておきながら、すっかり忘れてしまっていたいたり、こういったことを笑い話として話をしながら、実際には、そんな自分に自分でがっかりしていたり。

今のことを必死に守ろうとすることが、今の自分の生き方のすべてになってしまう。

そうやって、ことを大きくしないように言いたいことを言わずに、自分に対して我慢を強いたり、それを「おとなになるということ」と言い換えて、自分を紛らわせてみたり。


本当にこれが、私がやりたかったことなのだろうか?と、定期的に自分のこころに湧き上がってきて、息苦しい夜を迎えたり。


しかし、こうやって障がい福祉の最前線で、自分の時間という限られた「命」をすり減らしてまでも、こうやって仕事ができる環境は、本当にありがたいことなのだと思うのです。

私のテーマは、「この地域に何を残すのか?」ということであり、私が生きた証を、この地位域の方々に対して貢献するという形で残していきたいと思っています。

計画相談としては、ノーマを残すつもりですが、私の変わりも含めて、この地に質の高い支援者を残していきたいと思うのです。

また、CWSAの設立をもって、この地で定期的に学びを得られる環境を残しました。

今後は、この環境を引き継いでくれる方を残していきたいと思うのです。


いつ終わりがくるかわからないからこそ、私は、毎日、「今何ができるか」を考えていきたいと思います。






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