私たちの業界は、新しいことをする人の足を引っ張り、立ち止まる人を蔑む業界なのか?



今までを振り返ると、私自身がよく陰口を叩かれる対象になっていることがよくわかります。

ときには、面識程度で、直接、仕事や業務などで少しも関わったこともない人から、あることないこと言われているという情報が、複数の事業所から耳にすることもあります。

採用面接時にそんな話になったという話題も聞いて、「採用時に、それが誰であれ他人の悪口を言うなんて、一番採用する対象じゃないのにね〜」なんて話をしていたこともありました(苦笑)

そんな話をたくさんの事業所さんとできるのは、これまで長年にわたり努力してきた、たくさんの事業所との関係性の構築の結果でもあるなと感じる瞬間でもあります。

そもそも、なぜ私がそこまで陰口を叩かれるのか?といったことを、多くの方々に何気に相談したことがあるのですが、必ずそこでは『それは「嫉妬」「妬み」でしかないので、気にしない方が良いよ』とよく言われます。

私個人的には、たとえそうだとしても言われっぱなしで少々むかつくところではありますがね(笑)


でも、こういった内容は、不思議と私のところにきちんと届くので、おそらく言っている人は、私の耳には入らないと思って話をしているのか?それとも、入ることを前提に話をしているのか、直接、本人に尋ねてみたい気もしますが、、、それも、きっと周囲から止められるのでやめておきます(爆笑)


でも、自分自身を振り返ると、一度、フリーターや一般職を経験し、20代後半で精神保健福祉士を取得し、遅咲きの精神科ソーシャルワーカーになりましたが、それは学生時代から福祉を選択して業界に入ったわけではありませんので、障がい福祉のサラブレットでもありませんし、ましてや、必ずしも経験を重ねる上で最良の現場で働くばかりではなかったので、経験もあまり当てになりませんでした。

当時は、「周囲から自分が取り残されている感」に苛まれていた時期であり、その後の転職で、自分よりも年齢が下の、福祉系大学上がりの同僚との力の差を、まざまざと感じさせられたのは、今でも当時の苦しみとして記憶しています。

別に、周囲から問われたわけではないのですが、当時の私自身が①一度、社会に出てうまくいかなかった経験があること、②遅咲きの精神保健福祉士であり、周囲に遅れを感じていたこと、③初めての勤務先が閉鎖的な環境であり、思うような仕事ができなかったこと、という劣等感にがんじがらめとなり、不安と焦りに苛まれていたという過去があるのです。

だからでしょうか?自分の今後を不安視して、焦りがあったからこそ、自分が何をすれば同僚たちと対等でいられるのか?(別に、同僚が蔑んでいたわけではなく、私自身の気持ちのなかの問題です)自分の存在価値を感じられるような仕事ができるのか?という気持ちが、人一倍強かったように思います。

おそらくこのときに感じ続けた劣等感と焦りが、今の自分をつくっていると感じるのです。

私の中には、常に私なりの「最善」を求める自分がいます。

同時に、「自分ではどうすることもできないこと」の弱さも曝け出すことにもつながります。

自分の弱さを曝け出しながら求める自分の最善が、他者への最善にはならないことも知っています。

しかし、自分にとっての最善を求めていかないと、その後は、何もできないというジレンマに陥ることも経験済みですので、そのこと自体を変えるつもりは全くありません。

こういったことは、おそらく、生きづらさを抱える人たちにとっては、常にあり続けるジレンマだと思うのです。


私は、当時の勤務先の業務のなかに、「断酒会の運営」という業務がありました。

それは、私たちが中心となって運営するのではなく、運営する当事者をサポートする役割であり、決して私たちが会をコントロールすることではありません。

それが縁で、地域の断酒会にも入ることになったのですが、そこでの経験が、私にとって大きな影響を及ぼしているのです。

この感覚は、断酒会やAAといった自助グループに関わった人たちにしかわからない感覚だと思います。

「自分ではどうすることもできなかったことを認める」

「自分の弱さをさらけだし、自分に正直に生きる」

こういった生き方の心地よさを教えてくれたのが、断酒会というセルフヘルプグループだったのです。

だから、こうやってリスクを抱えながらも、自分の弱さを曝け出して、他人の助けを借りながら、私自身は今もこうやって業務を続けているのです。

自分の弱さを強みに変えられる仕事は、福祉ならではだと思うのです。


すべてではないにしても、同じような思いを持っている人たちは必ずいるであろうという前提があるから、支援者の自助団体である「一般社団法人福岡・筑紫地区地域福祉支援協会」は生まれました。

地域福祉を担う支援者をセルフヘルプするための団体がこの那珂川にあるのは、ある意味、私がそういった考えを持っているからとも言えます。

私たちが「支える」「支えられる」感覚がわからないのに、どうして他者の気持ちを汲み取りながら、エンパワメントして、支援することができるのでしょうか?

これを補うものが「学問」であるのであるからこそ、学問を学ぶことも重要なことですが、それだけでは足りないという「実践」があるから、私はその思いを形にする努力を行なってきて今があるのです。


ソーシャルワークは「学問」であり「実践」です。

学問なくしてソーシャルワークはありませんし、実践なくしてソーシャルワークはありえないのです。

計画相談は、私にとってのこれ以上にない実践の場であり、黎明期からこの仕事に関わることが、これまでの私にとっての福祉業界での集大成だといえます。

同時に、計画相談はとても難しい業務であることを実感しています。

だから、想いと裏腹に、自分の思いを留めることも必要になってきます。

それは、周囲から言われたからするのではなく、自分のこころとからだと向き合って決めるということが重要だということを、実践者として感じているのです。

人によって、新しいことばかりに向き合うことに対して、強いストレスにさらされて、こころとからだのバランスを崩す人もいます。

人によって、新しいことに初めは向き合うことができても、やり続けることに強いストレスを感じて、こころとからだのバランスを崩す人もいます。

人によって、新しいことに常に向き合うことによって、自分のこころとからだのバランスを保つ人もいます。

それは、その人の知識や技術、能力ではなく、その人なりのあり方の問題であるにも関わらず、同業者や同じ業界の人間が、その人それぞれの向き合い方に対して足を引っ張ったり、蔑むのはいかがなものか?と感じます。

新しいことに向き合う人がすばらしいのか?黙ってひっそりと取り組む人がすばらしいのか?

そんなことは利用者やご家族、ましてや同じ業界で働くひとたちにとっても、関係のない話です。


とはいえ、私自身も若い時は、自分以外の生き方に否定的な意見を持っていることもありましたし、その割に、自分で行動したことが、前のめり過ぎで燃え尽きたことが度々ありました。

自分の弱さを思い知らされ、情けない気持ちになったこともあります。

(というより、今でも情けない気持ちになることは常にあります)

しかし今は、その情けない気持ちが理解できる人として、立ち止まって苦悩している人に「それでいいんだ」と言い続けています。

その気持ちを感じて、悔しさを感じることが、その人を次の段階に進めてくれる。

周囲がなんと言おうとも、その気持ちを感じていること自体が、あなたをよりよい支援者に育ててくれている。

そんなことを伝えることができる「業界の先輩」でありたいと願います。


ただし、「何も学ばない」「何もしない」ということはかなりの問題です。

しかし、たとえそうであっても、それらのことは周囲から言われてするものでもありません。

支援者として、何もわからないまま取り組むことは、その事業所で必ず大きな問題となって現れます。

ひどいときには、虐待問題となり、ニュースになることもあるでしょう。

「そうなってから気がつくのか?」「その前に、気がつくのか?」

それは、「その人」「その人の所属する管理者」「その人の所属する法人」が考えるべき問題です。

だから、私はあえて、周囲のことまでとやかく言うことはしないようにこころがけています。

私は、「おせっかいおじさん」になるつもりはないからです。

「来るもの拒まず」「去るもの追わず」の精神で、これからもやるつもりです。


話を戻しますが、ある相談支援専門員さんが、「自分のペースを大事にする」「業務時間外や週末は、自分のため、家族のための時間にする」といった『働き方宣言』する人が増えてきました。

計画相談の働き方という柔軟性が評価され、今後も、この業界を目指す人たちが増えてくることでしょう。

私が始めた頃は、そんなことも言えないくらいに大変な状況でしたが、落ち着いてきたからこそ、私もそのような話をする機会が増えてきたのも事実です。

私自身は、現在、取り組んでいることは、計画相談だけではないこともあり、自分の中で上限を決めていますし、勤務時間外の労働については、自分に厳しく制限を課しています。

それは、計画相談黎明期に怒涛の業務に追われ、心身共に崩れて、崩壊した過去があるからです。

だからこそ、セルフコントロールの重要性を誰よりも理解していますし、これまでの短い計画相談の歴史の中で、計画相談から離れていった相談支援専門員を数多く見てきたからです。

辞める理由が「親の介護」は概ね違うでしょう(苦笑)


私自身は、今、そうやって発信している人たちがいる、そのずっと前から計画相談を行い、その第一人者として走り、ときに苦悶し傷つき、そして自らをエンパワメントして、その状況を曝け出して発信してきました。

私の思いや考えを否定する意見があっても一向に構いませんが、私の思いや考えを発信してきたことで、救われている相談支援専門員のことを考えて意見を言っているのかまで考えてもらえると幸いです。

この世の中は、強いもの、先をいくもの、新しいことにチャレンジするものだけが必要な業界ではありません。

自分の弱さを正直に曝け出し、こういった生き方があっても良いのだと思える人たちがいてこそ、福祉は成り立っているのですから。

ダメだと思える人にダメだというのは、誰にでもできるし、そこに専門性はありません。

ダメだと思う人たちの背景に何があるのかを理解し、その人に対してアプローチすべきなのか、そうではないのか、アプローチするのであれば、どのようにした方が受け入れてもらえるか?まで考えることが専門性です。

「一方的な意見のみを鵜呑みにし、支援するのは間違い」と周囲に教えながら、いざ自分の周囲のことになると、片方の意見を採用し、相手を陰で攻撃するなどもっての他です。

福祉の人間が、お互いの足を引っ張りあったり、立ち止まる人を蔑む業界と知ったとき、利用する側の人たちは何を考えるでしょうか?


同時に、お互いに切磋琢磨することは大事なので、「意見を言うこと」「意見を言われること」はとても大切です。

自分たちがやっていることに対して、反対の意見があるのは当然ですし、そのことを伝えてくれている機会でもあります。

意見を言ってもらえることはありがたいことであり、私たちにとって改善できる機会でもあるのに、人の意見に耳を貸さないことは、その人自身の成長も止めてしまいます。

「自分のやっていることが、周囲を陥れていないか?」という支援者としての意識を持てる人であれば、一旦、立ち止まって考えることはできるはずです。

「何が相手にそう思わせたのか?」そういったことを振り返るきっかけになれば、また、そういった人たち向けのことばに変えることもできるはずです。

人からの意見を、即座に「攻撃」だと捉えるもの、それは自分の成長を止めるものだと思います。

自分ひとりでその判断が難しいのであれば、そこに相談できる仲間が必要だとも感じます。

その仲間をつくることも、それはあなたの生き方の選択のひとつです。

負のスパイラルに陥るきっかけをつくっているのもまた、自分の選択かもしれません。

勇気をもって、行動することも必要になるのが、生きていく上でのむずかしさなのかもしれませんね。


年末年始は、昨年の振り返りと来年の抱負を考える機会になるので、今までにないくらいにいろんなことを考えます。

みなさんの来年の抱負を見る中で、ちょっといろいろと考えてしまいました。

私の文章は長いので見ないという人がいますが、それはごもっとも(笑)


まったく、今年も私にとって、めんどくさくて、生きづらい1年になりそうです・・・(笑)



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