あなたの正義と信念で利用者を抹殺するとき〜立ち止まる勇気と非審判的態度〜


もし、「目の前で悪事を働く者がいたら、それを正すのが正義である。」という問題があれば、誰しも答えは○と答えると思う。

もし、母子家庭で経済的に苦しいと発する人がいれば、役所に相談したり、生活保護を勧めるのは当然である。

目の前で、暴力を振るう者がいれば、警察を呼ぶだろうし、倒れる者がいれば、救急車を呼ぶかもしれない。

しかし、それは一般の人たちの誰もが想像することであり、それは「専門性か」と問われれば、それとはまた違う。

なぜなら、それは誰もが想像し、考えうることだからだ。


では、私たち相談支援専門員も同様の判断を行うだけで良いのだろうか?

例え話だが、夫のDVから逃げ出して、とりあえずのマンスリーアパートに逃げ出した母と子が、生活に困ったからと言い万引きを繰り返す。

万引きをしていることに罪悪感はなく、生きていくために必要な行為として正当化している母がいたとして、私たちは、そのときにどのように対応するだろうか?


このお話は、先日行われた研修会の一コマである。

ある人は、万引きは犯罪行為だから、警察に通報するかもしれないし、そもそもDVから逃れた人が利用できるシェルターを勧めるかもしれない。

ある人は、生活困窮なのだからと生活保護の受給申請を勧めるかもしれないし、ある人は、子育て支援窓口に相談して、こどもを保護して、母親の生活の安定と就労を勧めるかもしれない。

マンスリーアパートから、市営住宅の申請を勧める支援者もいるかもしれない。

また、ある人は、すべてを同時進行で進めるように促すかもしれない。


こういった内容は、主に制度利用を前提に進められる。

支援者で特に知識と同様の経験があるものは、必ず最初に制度の話を始めようとする「癖」がある。


しかし、そこに大きな落とし穴が隠れていると思わないだろうか?

それは、本当に本人が望んだ支援なのか?こどもが望んだ支援なのか?ということだ。

そもそも、そこに問題の本質があるのだろうか?

「万引きをしていること自体が犯罪なのだから、本人の意思など関係ない」と正義感を振りかざして、言い出しそうな支援者も出てきそうだ。


しかも、これらのすべては、支援者でなくても、誰もが考えうる内容ではないだろうか?

それこそが、私たちに求められた「専門性」なのだろうか?


私たちは、目の前の問題や課題に対して「なんとかしなければ」と考えてしまうが、そもそも、これらの問題や課題がなぜ生じているのかなどの検討をする必要はないだろうか?

そもそも、万引きを正当化すること自体、通常ではありえない選択肢であり、お母様にそのような行為を選択してしまう背景にあるものが何かを考えずに、DV問題、経済問題、犯罪行為、就労問題を解決しようとするだけでよいのだろうか?

「万引きは犯罪だからと通報すること」が正義であれば、そこに相談支援専門員は必要あるのだろうか?

通報した相談支援専門員が、今後、その母子の支援を継続することができるだろうか?

似たような問題には、アルコール依存症や薬物依存症、盗癖なども、犯罪だからといって警察に通報すれば解決するのだろうか?

万引きをしたくて万引きをしているのだろうか?万引きすること以外に選択肢があることを知っているのだろうか?

万引きしたくなくても、こころが半ば強制的に万引きさせてはいないだろうか?

そもそも、安易な選択をしてしまいがち背景に、疾患や障害が隠れていないだろうか?

そのあたりをはっきりさせるために必要な情報はどのように手にいれるべきなのか?


そういったことを無視して、制度を進めることが私たちの役割だろうか?

正義と悪の判断を、支援者である私たちが決めることを、ご本人は求められているのだろうか?


この話を聞いて、支援者としてみなさんは何かを感じているだろうか?

感じるのであれば、今一度、同じような状況になったときに、あなたは相談支援専門員としてどのような判断を行い、行動をとるだろうか?


今回はすべて?をつけてみたが、私もみなさまも、今一度、自分自身が利用者さんの支援を行う上での癖を、今一度、立ち止まって、原点に帰って、冷静に判断してみてほしい。

私自身も、やはり偏った判断による行動を自分で感じ、今一度、立ち止まる勇気を持ちたいと思った。





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